子育ては何を目標にしてやっていけばいいのか、それは「自分の人生を生きられる人間」に育てることです。
子どもは自分で育っていく力を本来持って生まれてきています。
だけど、だからといって親が子どもを放っておくのはダメです。
何があっても自分の責任で生きていける子、責任を引き受けられる子に育てる。
それを親が目標としてしっかり持っていないと。それを自立と言ってもいいですね。
アメリカなんかでは、子どもがある年齢に達したら、はっきりと自分で責任を持ってやれ、という考え方で育ててます。
それはすごく厳しいものです。
 たとえば、家の壁のペンキ塗りの仕事を、子どもたちに入札させるんです。兄貴は50ドル、弟は10ドルと書いたら、もちろん一番安い子に仕事は落ちる。小さい子はよく分かってないから、ただ勝ちたい一心で安く書いているわけです。
でも勝ったら誰の助けもなしに、泣いても仕事はひとりで最後までやらなければならない。「それみろ、自分の責任だぞ」と兄貴には言われるしね。そういう厳しさがあります。
自分が責任をとって生きていく、その厳しさは教えなければならないという義務を負っている。そのことをアメリカの親はしっかりと自覚していますね。
ただそこで大事なのは、自立と、依存とをまったく対立することとして考えないことです。
誰かに適度に依存している人こそ自立しているというか、自立は適度な依存によって裏打ちされていると言ったらいいか。これは親も子どもも分かっていてほしいんですが、依存のない自立は孤立というべきで、それでは関係が切れてしまっているんです。自立というのは、親と子の間に新しい関係を作ることです。
家庭というのは、失敗に対してすぐに評価が下されない場なんです。普通は「失敗=バツ」ですが、家では「次はがんばろう」とか「おまえのことだから」とか言って、すぐに「失敗=バツ」とかにはならない。失敗しても、それが子どものマイナス評価につながらないのが家庭なんです。
しかし、失敗したという事実はお互いにはっきり分かっている必要があります。「失敗じゃない」とか「こんなの大した事ない」というのはごまかしです。

 失敗しようがしまいが、その子がここに、「存在」していることが、まずすごいことなんだ。
 そうやって家庭で認められていたら、大きくなって困難な場面にぶつかっても、自己嫌悪にならないんです。
失敗したり限界を感じたりしたときに、自己嫌悪に陥ってしまのか、反対に自己を肯定して立ち直ってくるのかが、そこで決まってくると言っていいでしょうね。いろいろ欠点はあっても、親がその子の人間としての尊厳を認めていたら、立ち直ってこられるんです。
それさえ親が持っていたら、失敗したとき「こらー、失敗したな」と言っていいんです。
学校の先生でも「こら!」とか言っても、ちっとも嫌われない人、いるでしょう。変な評価が入ってないからです。
失敗そのものに対して言ってるんであって、人間評価につながらない。下手な人は「傷つけたらいかん」と思って言わないんだけど、こころの中で思っているから、かえって伝わってしまうんです。
 家族の役割というのは、本来はこんなふうに計測不能な、目に見えないほうにあるはずなんです。でも、目に見えないことで安心するのは難しいことだから、親の関心が目に見えるほうへ目に見えるほうへ向かう傾向があります。
それはもう子育てだけじゃないと思う、いつの間にか、家庭が学校や会社のようになって、子どもを点数だとか、数字で見えるところでばっかり評価している。
それをこのあたりで思い返してもらわないと、と思います。

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